関係性の崩壊
lgEは本来大型の寄生虫の感染に対抗する免疫的手段で、寄生虫を消化管から洗い流す役割りを担っていた。人間の免疫系を発達させた原因は,おそらく周囲にいる多くの微生物との日常的な戦いの結果だろう。しかし、免疫と微生物との戦いは,細菌やウイルスの侵入を,あるボーダーラインで抑え、微妙な共存関係を作り出すというもので、微生物の侵入を完全に拒否するものではなかった。 仙元清嗣 |
« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »
lgEは本来大型の寄生虫の感染に対抗する免疫的手段で、寄生虫を消化管から洗い流す役割りを担っていた。人間の免疫系を発達させた原因は,おそらく周囲にいる多くの微生物との日常的な戦いの結果だろう。しかし、免疫と微生物との戦いは,細菌やウイルスの侵入を,あるボーダーラインで抑え、微妙な共存関係を作り出すというもので、微生物の侵入を完全に拒否するものではなかった。 仙元清嗣 |
原モグラを祖先としてその後原猿や草食動物や、肉食動物が進化し枝分かれしていきます。そして殆どの哺乳類は性闘争本能を抑止or封鎖し集団動物化していきます。 北村浩司 |
失礼しました、吉国さん。 細胞分化や有性生殖の前に、外的圧力と適応戦略ですね。 >確かに個体間の変異(差)によって、自然淘汰されていくというダーウィンの進化論は、よく考えると少し変ですね。個体とは子供を残せる段階というように、個体を再定義して、あくまでも個体だという見方もおかしいように思います。集団性とは、個体にかかる自然の圧力が一様ではないということを意味します。あるいは、個体にかかるという圧力という発想そのものがおかしいのでしょうか。集団(あるいは種や群)単位としての外圧適応ということでしょうか。 『種の起源』によれば、 「同種の個体どうしはたがいに、あらゆる点でもっとも伯仲して競争することになるので、闘争は一般にそれらのあいだでもっとも厳しいものになろう。闘争は同種の変種間でもそれとほとんど同等にきびしく、同属の種間ではそれに次いだきびしさになるであろう。しかし闘争は、自然の階段できわめて遠く離れたもののあいだでも、しばしばひじょうにきびしいであろう。ある生物がどの齢あるいはどの季節においてでも、競争相手となるものに対してごく軽微な利点をもつなら、あるいはいかに軽度であっても周囲の物理的条件によりよく適応しているなら、それは天秤をかたむかせてその生物を優勢にするであろう。」 ということになります。 しかし、カンブリア紀の多様な生物の出現を考えるとき、果たして個体間の闘争と自然淘汰(自然選択)という概念が正しいのだろうかという疑問が生じます。漸進的な変化の積み重ねで、大爆発を説明できるでしょうか。少なくとも、個体間の闘争が最も激しいといえるでしょうか。 自然選択と考えた場合、自然環境の激変は選択条件が厳しくなることを意味しており、種は減っても多様化することにはなりません。その減少期をくぐりぬけた後の安定な環境における拡散適応だとすれば、可能性が開かれれば多様化する仕組みが内在していなければなりません。また、食物連鎖上で種間の関係に変化が生じた場合には、新たな生態系が構築できなければ、捕食上有利であっても生存できません。 発生の過程が、進化にとって重要であることは異論がないと思います。発生の機構が形態形成の枠組み決定し、形態変化を制約しているとすれば、大進化はこの発生機構の変化を伴うはずです。逆に、個体の変異と自然選択とは、従来の発生機構の枠内での変化しか対象にしていないようにも思えます。 個体間の闘争と自然選択による漸進的な進化というのは、あるていど安定な生態系がすでに存在する中で、食物連鎖や物質循環が大きく損なわれない範囲での変化を指しているに過ぎないのではないでしょうか。 |
石野潤
3段階の外圧環境に対する適応戦略、興味深く読ませていただきました。それぞれの段階について、多様化という点から述べさせてもらいます。
>1.まず大変化の初期段階では、「自然圧力」が主圧力となる。
自然環境の大変化により生物の機能が停止する危機=絶滅の危機に瀕しているわけで、この段階の種(あるいは個体)にかかる外圧は、自然圧力>>種間圧力>個間圧力であり、生物にとって対自然闘争に勝つことが第一義的な意味を持つ。
自然外圧については、急激な変化と緩やかな変化では適応の戦略は変わってくると思われます。上記のような急激な変化とは、生物の側から見れば、機能の適応限界を超えていることを意味します。そのままでは絶滅であり、新たな機能の獲得が必要とされている状況です。
これに対して、捕食対象が緩やかに減るなどの変化に対しては、大きく形質を変える戦略は必要ないかもしれません。そこで生じるのが捕食をめぐる個間闘争であれば、幼い個体など相対的に捕食能力に劣る個体が淘汰されてしまうことになります。これでは子孫が残せません。生物一般に見られる集団性はこのような条件に対する適応として、古くから形成されてきたのかもしれません。または、集団本能を下敷きに適応戦略をとってきたといえるかもしれません。
>2.中期段階では、「他の生物との種間圧力」が主圧力となる。
自然環境の激動に適応した複数の種は新しいニッチを巡って競争関係に入る。自然圧力に一定適応している(外圧が下がる)ため、種間圧力>自然圧力>個間圧力であり、種の違いとは機能や形態が違うわけで、その種内の個体間の闘争の生み出す圧力など問題にならない。 (中略) ここでの適応戦略は、さまざまな可能性戦略を生み出し、進化の方向性を決めるほどの大戦略となるだろう。
特に、食物連鎖上の種間関係の激変(特に肉食動物の出現)は、機能や形態に大きな変化をもたらします。エディアカラの生物にははっきりした捕食動物の化石が見つかっていません。これに対して、バージェス頁岩から発見されたカンブリア紀の動物群は多様な生命世界を築いています。この時代の肉食動物の出現(種間圧力の激化)は、その形態や機能において、ありとあらゆる可能性を探っているかのような変異をもたらしました。
このような生物の変異を考える際には、より適応的か、そうではないか、という+と-はあっても中立などというものは存在しません。中立的な変化があったとして、それは変異から見て大きな意味をもたないからです。
蛇足ながら、ミツバチのチトクロムCの進化速度は中立説に従わないし、ウシ、ブタ、ヒツジのチトクロムCの一次構造は全く同じです。チトクロムCなど生きるためにどうしても必要なものは大きな変化にほとんど関係なかった(中立だった)というふうに考えたほうが整合するのではないでしょうか。
>3.後期段階では、「同じ種内の個間圧力」 が主圧力となる。
他種との共存あるいは競争の決着によってその種間の圧力が一気に下がった状態(自然圧力の低下及び種間圧力の低下=外圧低下)、その種にとって安定的な状態。 (中略) この個間闘争には捕食闘争と性闘争(性淘汰)が考えられるが、外圧が極めて低いという段階での餌の奪い合いはほとんど意味をなさないので、この個間闘争の中でも性闘争の圧力が主圧力になると考えられる。
生物の生存と進化を考えるとき、生命維持のための安定と環境変化に対応するための変異という要素が存在と思います。その際たるものが、オス(変異)メス(安定)分化による適応ではないでしょうか。
そして、上記段階での性闘争が生み出す性差の増大は、結果として個体間の体格差を生み出し、この体格差が結果として捕食上の個間競争を左右しているようにも思えます。
石野潤
「女の言いなり男」が多くなっていくのに反比例して、女の不全感が上昇してる?と思われる現象について、男側の問題として考えてみたいと思います。
本当は「包容力があって頼れる男がいい」けど「そんなイイ男はいない」のだから「構ってくれるカワイイ男でいい」・・・こんな女の選択に、今の男たちが反論する術はあるのでしょうか?この会議室ですら、男たちから女たちを導くような明解な答えが提起されることが少ないということも、現在の男女の力関係を如実に現しているように思えます。
女たちが本当にいきいきと生きていた時代、男たちは集団の外圧に適応するべく闘争・統合課題を担っていました。そして、女たち(生殖集団)の輝きと充足は、男(闘争集団)の誇りであり活力源でした。男たちが、女たちの従役(採集など)と生殖過程の縄張りを命懸けで守ろうとするからこそ、女たちも、男たちをかけがえのない存在だと感じ、敬い、その期待に応えていたのでしょう。
現在の女の子は、父親とは家の中だけ、彼氏とも概ねデートの時だけという、私的な生殖・消費関係の中でしか接していません。闘争・生産過程のない環境下で、男の存在の有難さを感じずに育った彼女たちは、そのままでは男女解脱の共認充足を得られないのではないでしょうか? 集団の先頭に立って、仲間のために闘う男たちと交わってこそ、女たちも応望の歓びを感受できるようになり、いきいきと働き、男たちを励まし、子供たちを慈しめるようになるのだと思います。
まずは己が闘争存在として恥ずることなく、女たちに期待していけるようになることが、今の男たちの先決課題なのではないでしょうか?
平野令
まず、有性生殖における事実を確認してみましょう。 蘆原健吾 |
20世紀の初頭から女性の開放が叫ばれ始め、その後1970年代にはウーマンリブ、1980年代にはフェニミズム、1990年代にはジェンダーフリーを唱えるまでになってきた潮流、まさに20世紀は「女の時代」であったと言っても過言ではないと思います。 大木康子 |
働くというのは企業同士が闘争しあうことです(もちろん企業内での闘争もありますが)。企業での仕事とは、本当に戦いといっても過言ではありません(企業戦士とはよく言ったものです)。
その企業を背負って最先端で戦うこと、それを女性が担うのはたぶん難しいでしょう。だって、何か守るべきもの(子供とか、家庭とか)があれば、それが負担になるのは当然ですから。だから、「性差でなく個体差で」なんて現実問題として無理な話です。ですから、女性と男性は同じ権利うんたらかんたら言ってる男女同権論では、何も解決しないのです。
しかしそれは、もちろん「闘争」という同じ土台にあがろうとすればの話です。
闘争課題を担うという一面のみの話なら、女性の子供を産むという行為は文字通り「ハンディ」に成ってしまう。でも、ここで「同じ土台にあがる必要があるのか」という問題が生じます。だいたい女性自身、本当にそういう「戦い」を求めている人はどれくらいいるのでしょう。
「性差無く競争しあう」?
そうではなく、企業内で「闘争」以外の役割を仕事として評価すればいい。それは女性にとっても男性にとっても、むしろ良いことなのではないでしょうか?何もそれは「闘争をするな」という強制でも禁止でもなく、女性の積極的肯定視です。
例えば、最先端の闘争の場ではなく、「守られた同一集団内」では男女ともそんなに差はなく同じ仕事ができるでしょう。むしろ女性は親和機能が優れているので、営業や対面関係の仕事に向いているかもしれません。そのように特性を生かした仕事が評価され、無理することなく特性を生かしていける環境が整えられれば、それが幸せであり、それこそが「平等」だと思うのです。実現論はそういう当たり前のことを言っているだけで、差別してるわけでもなんでもないと思います。
ですから、必要なのは、なぜ闘争と生殖は分断されたのかという問題を解決することです。だって、農業やってるときは女性男性問わず仕事をし、女性もたくさん子供を産んで育ててきたのですから。それなのになぜ、今それを「選択」しなければいけないのでしょう?
出産・子育ては、本当はハンディでも何でもない、むしろ女性として当たり前のこと。むしろ、女性の出産を「ハンディ」にしたてあげているのが男女同権論ではないでしょうか。女性を無理矢理闘争の場に引きずり出すようなことになっている現状、考え直したいですね。
ただ、闘争集団が生殖を内包した場合、どういう形でそれを実現していくのかは、難しい問題だと思います。共同体で子育てというのは本当に理想的だと思いますが、どうやって具体化していくのは、また考えていかなければいけないことでしょう。
吉岡摩哉
実際サルに自我があるのかどうか、知られている現象事実から類推してみましょう。
サル学の報告を聞きかじったところでは、サルの集団ではエサやメスの取り合いをめぐってイザコザが絶えないそうです。ボス猿の役割はそのイザコザを仲裁し、集団の秩序を保つことが大半であるようです。それでも、ボスの目を盗んではメスにちょっかいをだすオスは結構いるみたいです。
また、ボスの座を巡る序列闘争も、単に腕力での強弱で決着するわけではなく、序列2位のサルとその一派のサルが連帯を組んで協力してボスを引きずりおろすということもあるようですし、その序列2位のサルがボスの座につくと今度はその一派だった味方のサルがボスに反旗を翻すようなこともあるようです。つまり、集団の中で人間社会の権力闘争に見られるような派閥争いと足の引っ張り合いは日常茶飯事のようです。
また、仲間外れにされた離れ猿がいたり(日本サルなどは母系制でオス猿が集団を離れて離れ猿になるという行動がありますが、共認された行動様式は別として)、グルーミングなどの親和行動にも積極的なサルと仲間にあまり馴染もうとしないサルとでかなり個体差があったりとか、仲間や集団との距離において性格的にもかなり個体差はあるようです。
その他に、サルは人間と同じようにマスターベーションを覚えるという事実もあるようです。現実には目の前にいない性的対象に対して性的行動をとるのはサルと人間だけだと思われます。
これらの行動の特徴が、全て自我に基づくものであるかどうかは慎重な分析が必要だとは思いますが、少なくとも、結構自分勝手で集団の秩序を乱すような行動もとるということは事実であり、その行動の動機に自我を措定することによってこれらの現象が説明しやすくなるのではないかと思います。
こう考えてみるとサルは、ますます人間にそっくりに思えてきます。むしろ進化史の順番からいうと人間がサルにそっくりと言った方が正確でしょう。
しかし、人間がサルと違うところは、同じ自我に基づく行動でも、他人を傷つけたり、支配したり、殺したり、殺戮戦争をしたり、性倒錯に陥ったりと桁違いに集団破壊と幻想化の程度がヒドイところです。サルにも自我はあるのでしょうが、集団秩序を破壊するところまではいっておらず、ちゃんと集団を維持し自然と調和している分だけ人間よりはエライのではないかという気がします。
なかなか難しいテーマだと思いますが、せめて人類もサル並に自我を制御できれば、人間の社会ももう少し暮らしやすくなるのではないでしょうか?
雪竹恭一
>女子のトップランナーならば2時間30分程度で走りますが、私(男性です)のようなただの人が走っても3時間や4時間ではきかないと思います。だからといって女性よりも足が遅いと言うことになるでしょうか。女性よりも足が遅いとは男性として失格だということになるでしょうか。<
なる訳がないでしょう。上記の設問が成立する為には、「女性は全て(or平均して)2時間30分で走れる」という事実が必要です。つまり、上記の設問は、0.1%にも満たないごく少数の女の能力を、あたかも全ての女に普遍的に備わっている能力であるかのようにスリ替えた詭弁の上でしか、成り立たないのです。
「男は女より速く走れる」という一般的(平均的)な事実に対して、貴方が例外的な特殊事例を持ち出し詭弁を弄してでも主張したかったことは、一点です。「個人差は、男女差よりも大きい。」しかし、それは何を根拠に言えるのでしょうか?上記設問の様な詭弁では、全く根拠になりません。むしろ、極めて悪質な欺瞞の論理であることが、証明されただけです。
個人差などというものは、相対的なものに過ぎません。ですから、ある能力が低ければ別の能力を磨けば良いのです。しかし男女差は、絶対的です。いくら努力しても、男が女になることはできないのです。この絶対性は、40億年に及ぶDNAの塗り重ねに拠っています。そして、男らしさ女らしさは、このDNA(本能機能)を下敷きとして塗り重ねられたサル以来6000万年に及ぶ雌雄役割規範(不文律)に基づいています。それらは全て事実であり、かつ我々の脳内に刻印され実在しています。
貴方は、これら40億年に及ぶ本能(DNA)や6000万年に及ぶ規範に対して、いったい何を根拠にして「幻想であったと思わざるを得ません」と云うのでしょうか。その根拠はどこにも示されていません。しかし、それは貴方に限ったことではなく、男女同権論者の理屈は概ね貴方の云っている様な中身で、主張の中身そのものがステレオタイプ化されているのが常なのです。なぜか?考えてみたことはありますか?
それは、男女同権論が、「個人(自我)を原点とする」という近代のドグマを前提にしてはじめて成立する論理だからです。(そこでは個人が原点なのですから、当然男女差など二の次、三の次の基準だと見なされますし、また個人として男も女も当然「同格・同権である」という結論に結びつきます。)しかし、この「個人(自我)が原点である」という近代ドグマこそが、事実に反する迷信なのです。貴方も、本能や不文律規範に向かって、「それは幻想である」と決め付ける前に、まずは近代数百年しか通用しなかった「近代ドグマこそ、幻想ではないか?」と疑ってみたらいかがでしょうか。
四方勢至
マラソンの例でも結局、女性のトップは男性のトップにはかなわないんでしょう? 西知子 |
>23組46本の染色体のうち性を決定しているのはわずかに一つ。2%に過ぎません。<
ある遺伝子の作り出す蛋白質は、他の多数の遺伝子群が作り出した他の蛋白質群と、極めて多様な連鎖化学反応を行っています。むしろ、Aという蛋白質がBという蛋白質としか(それ以外には)反応せず、かつその反応がA→Bで止まってしまう(それ以降は一切反応しない)ケースは、極めてマレにしか存在しません。
従って、Y染色体の作り出す多数の蛋白質群は、他の染色体の作り出した無数の蛋白質群に多様な連鎖反応を引き起こします(過半の染色体の作り出す蛋白質群に何らかの反応を引き起している可能性さえ、考えられます)。
従って、遺伝子が2%しか違わない(注:実際は1%も違っていませんが)からといって、男も女も99%は同じであるという根拠には全くなりません。(例えば、たった一種の男性ホルモンが働くだけで、脳の組成や働き方が変わってしまいますが、実際にはもっと多数のY由来の蛋白質が、様々な部位で作用を及ぼしています。)
四方勢至
サルには、群れの目を盗んでの、つまり序列上位ではないサルによる(規範破りの)性が存在します。これはサルにおける自我の発現と言えると思います。
こういった”目を盗む”行為は、性闘争回路だけでなく、自我回路の作用なしには考えられないと思います。
何故ならもし、性闘争回路だけに基づくとすれば、それは性闘争→序列闘争=力と力のぶつかりあいにて決着がつき、その現実の勝敗を捨象することは有り得ません。
例えば、他の哺乳類の事例ではオオカミなどにおいても、オス同士の決闘の結果、勝敗が明らかになると、負けた側が首筋を差し出し、勝った方が噛みつく振りをして、そこで決着がつく。こうして狩(と性?)の序列が形成されるわけですが、彼らにとって、本能的に決定された勝敗は、疑い様も無い現実であり、本能に拠る以上、それを捨象する余地はありません。
サルにおいては、自我回路をもつがゆえに、こうした本能的現実に反した行為が顕現するのではないでしょうか。
越見源
近年、「少子化」が問題とされていますが、私は、これは「杓子定規のフェミニズム」に責任の一端があると考えます。 野本しんぴー |
原猿は概ね原モグラと同じで、1匹の首雄に2~3匹のメスが集中する首雄集中婚が主流ですが、同時に注目しておくべきことは、原猿集団は首雄と数匹のメスとその子供たちによって構成される生殖集団であるという点です。もちろん、首雄が闘いを担う闘争集団でもありますが、重要なのは、この集団が雌雄の揚棄(充足)共認と役割共認によって成立し、統合されているという点なのです。その充足共認の中心を成すのは性的な期待と応合の共認であり、この様な雌雄充足共認は、驚くべきことに闘争集団である真猿集団においてもその核として存続し続けるのです。
言うまでもなく、真猿集団は闘争共認によって統合された闘争集団です。しかし、戦力にならないメスたちは、その闘争集団の中央に、あくまでも原猿と同じ雌雄充足共認の世界(=生殖集団)を形成し続けます。つまり、メスはあくまでも生殖集団を拠点とし(メスの生殖収束)、首雄との雌雄充足共認を存在の武器とし続けました(メスの首雄収束)。この様に、真猿も首雄と雌たちの雌雄充足共認によって形成された生殖集団(原猿と本質的に同じもの)を核として、その土台の上に(核の外側に)雄たちの闘争集団を構築したのです。
真猿における中央の生殖集団と外側の闘争集団を媒介しているのが、雄たちの性闘争とその帰結たる序列秩序であり、この性闘争⇒序列秩序(規範)によって真猿集団は統合されています。従って、真猿の婚姻制も首雄集中婚が主流で、中央に首雄とメスたちと子供たち、その外側にオスたちという、絵に描いた様な内雌外雄の同心円の隊形を取ります。(但し、同類闘争の圧力が低下し、序列規範が緩むと、首雄の目を盗んだメスの挑発→交尾によって集中婚規範が破られ乱婚化してゆくことは、既に皆さんの投稿でも明らかにされた通りです。)
この様に、あくまでも生殖集団=性的な期待・応合に基づく雌雄充足共認に収束するメスの習性は、原猿・真猿・人類の極限時代、そして遂に闘争を放り出して生殖だけの家庭を不可侵の聖域として形成した現代に至るまで一貫しており、全く変わっていません。
四方勢至
最近のコメント