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2012年10月15日 (月)

男女同権論について、再々考

働くというのは企業同士が闘争しあうことです(もちろん企業内での闘争もありますが)。企業での仕事とは、本当に戦いといっても過言ではありません(企業戦士とはよく言ったものです)。

その企業を背負って最先端で戦うこと、それを女性が担うのはたぶん難しいでしょう。だって、何か守るべきもの(子供とか、家庭とか)があれば、それが負担になるのは当然ですから。だから、「性差でなく個体差で」なんて現実問題として無理な話です。ですから、女性と男性は同じ権利うんたらかんたら言ってる男女同権論では、何も解決しないのです。

しかしそれは、もちろん「闘争」という同じ土台にあがろうとすればの話です。
闘争課題を担うという一面のみの話なら、女性の子供を産むという行為は文字通り「ハンディ」に成ってしまう。でも、ここで「同じ土台にあがる必要があるのか」という問題が生じます。だいたい女性自身、本当にそういう「戦い」を求めている人はどれくらいいるのでしょう。

「性差無く競争しあう」?

そうではなく、企業内で「闘争」以外の役割を仕事として評価すればいい。それは女性にとっても男性にとっても、むしろ良いことなのではないでしょうか?何もそれは「闘争をするな」という強制でも禁止でもなく、女性の積極的肯定視です。

例えば、最先端の闘争の場ではなく、「守られた同一集団内」では男女ともそんなに差はなく同じ仕事ができるでしょう。むしろ女性は親和機能が優れているので、営業や対面関係の仕事に向いているかもしれません。そのように特性を生かした仕事が評価され、無理することなく特性を生かしていける環境が整えられれば、それが幸せであり、それこそが「平等」だと思うのです。実現論はそういう当たり前のことを言っているだけで、差別してるわけでもなんでもないと思います。

ですから、必要なのは、なぜ闘争と生殖は分断されたのかという問題を解決することです。だって、農業やってるときは女性男性問わず仕事をし、女性もたくさん子供を産んで育ててきたのですから。それなのになぜ、今それを「選択」しなければいけないのでしょう?

出産・子育ては、本当はハンディでも何でもない、むしろ女性として当たり前のこと。むしろ、女性の出産を「ハンディ」にしたてあげているのが男女同権論ではないでしょうか。女性を無理矢理闘争の場に引きずり出すようなことになっている現状、考え直したいですね。

ただ、闘争集団が生殖を内包した場合、どういう形でそれを実現していくのかは、難しい問題だと思います。共同体で子育てというのは本当に理想的だと思いますが、どうやって具体化していくのは、また考えていかなければいけないことでしょう。

吉岡摩哉

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