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2012年11月

2012年11月29日 (木)

有性生殖の意味

死を伴う有性生殖がかなり根元的な生物の戦略であるとして、オスメスの差違が我々人類への進化の過程で強調されてきたのは何故なのか考えてみたい。

生物の中には大雑把に①雌雄同体のもの(ミミズ等)も居れば、②受精卵の置かれた環境によってオスメスの区分が起きるもの(魚類など状況でメス→オスに変化するものを含む)や③我々のようにDNAにその発現因子が組み込まれた生物もいます。

①②③の違いはオスメスの差違を明快に(確定的に)している差違と捉えられると思います。

そして概ね①<②<③の順に体の機能が複雑化(高度化)しているように見て取れます。この事実が何を示すかなのですが、体の機能が複雑化のためにはオスメスの差違の拡大が必要だったのか?または、オスメスの差違の拡大が体の機能の高度化に必要だったのか?

実現論によるメスの生殖負担の論とも関連するとは思うのですが....

「多様性の獲得」という有性生殖の意味に於いては①②③のどの生物にも可能性は開かれていたはずですが、その次ぎに塗り重ねられた戦略に違いが生じたのでしょうか。

素人考えで申し訳ないのですが、同等の体の機能を持つ生物であれば単純に生殖機会の多いと予測できる①>②>③の順で有利なはずです。

最初に有性生殖の機能を獲得した生物はオスメスの差違のあいまいな①の生物ではないかと思うのですが、①の生物には高度化の可能性(≒適応能力拡大)がなかったのでしょうか?

私はそんなことはないと思います。

体の機能の高度化は行動様式の高度化とも密接に関連しているのではないでしょうか?そして、その行動様式とは捕食と生殖であるはずです。

つまり、適応能力の拡大という進化の方向性はオスメスの差違の拡大と言う戦略によって実現されてきたと言えるのではないでしょうか。

鈴木達也

2012年11月26日 (月)

危機逃避の本能からでしょうか

>彼らはこうやって、個体数増加→抗争および集団移動→大量死→旺盛な繁殖力で挽回、というサイクルを繰り返しているのです。<

>こうして、過密状況になると群を分かちて旅に出るレミングも、ごく一部が次の世代を残してきた。このことが、繰り返されるうちに、レミングの本能の中に、過密状態になれば新天地を求めてがむしゃらに集団移動するという行動が残っていったのでしょう。<

集団自殺(集団の死の戦略)というよりも、それは集団の危機逃避本能に根ざした逃避行動の一つということですか。結果的に死ぬ場合が多くある、と。戦略的には新しいニッチを目指しての大移動ですから、可能性を目指しての(死を決しての)隙間戦略ということでしょうかね。そうであれば、死そのものが機能的に(遺伝子に)組み込まれた戦略(「死の戦略」)とは少し違うかもしれませんね。しかし、生態系や種という高い階層から捉えると、必ずいくつかの集団が「死」ぬ(…あいまいで、しかし必然的な死の選択とは、生への淘汰を意味するのでしょうが…)ことで個体数の制限を行っているわけですから、大きく捉えれば、死を組み込んだ種のレベルの戦略であるといえないこともありませんね。「必ず死ぬ」という機構が遺伝子に組み込まれたアポトーシスとは少し違うかもしれませんが。(直観的には、いつかは死ぬ、誰かは死ぬ、という、分裂寿命ではなく分化寿命を持った脳細胞・心筋細胞と通じるように思いますが…。この点は後日触れたいと思います。)

ただ、レミングの集団自殺は、ある意味では、モグラの性淘汰と通じるところがありますね。淘汰適応態として性闘争本能を強化して、結果的に「死」を組み込んだ適応戦略であるモグラの戦略に似ています。いや、モグラの性闘争本能を根元回路にして、追従本能を解除強化した集団危機逃避本能が相乗収束しているのかもしれませんね。
*生命体の持つ自己組織化であるとか、創発的秩序形成というのも大きくは、集団危機逃避本能の持つ機能として捉えられると私は思っています。 

「哺乳類は性闘争=縄張り闘争の本能を著しく強化していった。実際、性闘争を強化した種の方が適応力が高くなるので、性闘争の弱い種は次第に駆逐されてゆく。かくして哺乳類は、性闘争を極端に激化させた動物と成っていった。モグラの場合、性闘争に敗け縄張りを獲得できなかった個体(=大半の個体)は、エサを確保できずに死んでゆく。」(『実現論』前史ハ)

「そこで、彼らの最強本能たる性闘争=縄張り闘争の本能が問題化する。この本能は、激しい個間闘争によって敗退した大多数の成体が行き場を失って外敵に喰われ、あるいは餓死することを前提にしている。簡単に言えば、大多数が死んでくれることによって調和が保たれる本能である。」(『実現論』前史ニ)


モグラは追従本能(集団本能)を封鎖して、性闘争という激しい個間闘争を本能化させたわけですが、それはあいまいで必然的な個体の死という「死の第二の戦略」と呼べるでしょうか。「細胞から個体への死」というところへ死の戦略を拡大したという見方もできます。そして、レミングはさらに集団の死という「死の第三戦略」といったところでしょうか。いったい、人類の滅亡の危機は(あまり考えたくはないのですが)「死の第三戦略」に繋がるものでしょうか…。

>人類の祖先も、上に挙げた今の齧歯類に似た生物でした。もしかしたら、過密状態になると新天地を求める本能が、人間にもあるのかもしれませんね。<

死の戦略は生の戦略の表裏。新しい新天地(本源の地)を目指すべく、社会を転換していきたいものです。

吉国幹雄

2012年11月23日 (金)

有性生殖の意味

青山さん、吉国さん、レスありがとうございます。

ちょっと乱暴な言い方であったようですが、有性生殖の意味が「遺伝子組み替え」≒「多様性の獲得」と仮定して、この点を掘り下げるのには異論はありません。それによって「遺伝子組み替え」以外のオス、メス分化の意味があるのか、ないのか?あるとしたらどの段階からか?この辺の答えらしきものも見えてくるかもしれません。

>現在の一般的な有性生殖の機構成立のためには、遺伝子組み替えと減数分裂とそして、「死の機構」が組み合わされて出来上がったと思われます。減数分裂と絡むところでは二倍体の問題が大きいとは思いますが、やはり「性」の「生」戦略を考える時は、「死」の戦略を考えざるを得ないだろうというのが私の考えです。<
面白そうですね。

減数分裂によってできる一倍体のハプロイド細胞と受精卵から個体を形成するディプロイド細胞の違いに着目している方がいます。
どうせネタばれするので先に言いますと手元に団まりな氏の本がありまして、氏も同様のお考えを持っているようです。

>真核細胞の増殖法の1つである「有性生殖」は、“接合(受精)”と“減数分裂”という2つの過程からなっています。接合は2個のハプロイド細胞がその細胞膜や細胞質だけでなく、核までも融合させてディプロイド細胞になること。減数分裂は相同染色体の“対合”と2度の“有糸分裂”を通じて、1個のディプロイド細胞から4個のハプロイド細胞が生じることです。<
(団まりな氏リンクより)

氏はディプロイド細胞の特徴として細胞間の連絡構造があることによって食べることに関する分業ができると言っています。この、「栄養的細胞分化」が細胞の役割分担を可能にし、複雑な多細胞生物の体の構築を可能にしているということです。もちろんハプロイド細胞から造られる多細胞生物(苔や海苔)もいますがこれらはこの連絡構造を持たないため複雑な機能分化はなく、集まっているだけに近い状態だそうです。

また氏は、ディプロイド細胞は有糸分裂の回数に制限があるのではないかと考えているようです。つまり、「死」の機能を持ったことを意味します。

上記の2点からディプロイド細胞による多細胞生物の受精卵からの発生過程におけるアポトーシスを思い出さずにはいられません。

今までは1倍体から2倍体への変異と言えば遺伝子の安定に寄与するのだと思っていましたが、細胞の役割分担の機能を獲得するための重要な変異である様です。

そして、見方を変えると細胞の役割分担の機能を複雑にするためには「死」の機能が必要になったとも言えるのではないでしょうか。そして同時に種としての存在を維持しながら「死」を超えるためには、一度減数分裂によるハプロイド細胞への回帰も必要になる。この仮定に多様性の獲得機能も取り入れるとは感嘆するしかありません。

有性生殖の意味には多様性の獲得と同時に複雑性の獲得(高度化と言っても良いかもしれない)があるのではないでしょうか。

鈴木達也

2012年11月20日 (火)

HLA分子

免疫の話、突然変異の話、面白く読ませていただいています。

免疫学者の多田富雄の『生命の意味論』の中に、関連する面白い記述がありましたので、紹介させていただきます。

臓器や皮膚を移植した時の拒絶反応に関係しているといわれるのが、主要組織適合抗原ですが、略語でMHCと呼ばれています。このうち、例えばネズミではH-2、サルではRLA、人間ではHLAという略称です。

実は、人間の60 兆全ての細胞膜の上に、いわゆる「自己」の指標としてのHLAタンパクがつきだしいています。6種類のクラスⅠ抗原と6種類のクラスⅡ抗原から構成され、それぞれが多様な構造を持っているため、全てが同じという組み合わせは、他人では極めて希です。

人間の体を構成している様々なタンパク質は、個体によって違うわけではないのに、HLA分子だけは、例外的に著しい多型を持っています(親子でも兄弟でも組み合わせは勿論異なります)。移植の際の拒絶反応は、このHLAの違いを免疫のT細胞が認識することによって起こります。

この分子の構造を決めている遺伝子も特定されているのですが、本によると、HLAの多型は、この遺伝子の変異の蓄積により起こったと考えられているそうです。

>人類発生の頃に、すでにHLAの多型が存在していたらしいのである。

>ドイツの遺伝学者J・クライン博士の研究によると、(中略)、人間で見られるHLAの多型性に相当するものが、他の動物にも見られる。(中略)ということは、まだ人類というものが生まれる前から別の動物にすでに存在していた多型性を、人類発生と同時に受け継いだということになる。

中略

>言いかえれば多種多様のHLA遺伝子を引き継ぐほどの多数の個体が、突然人類に進化したことになる。


これをみると、「一個体が突然変異を起こし、その遺伝子が小集団の中で頻度を上げていった。それにより新しい形質が種に定着し、進化する」とする進化論の定説での説明は困難で、HLAの研究からは、交配可能なかなり多数の祖先が、一度にこの地球上に姿を現したということになります。

今西進化論を彷彿とさせる話ですよね

蘆原健吾 

2012年11月17日 (土)

根源的認識の理解、免疫系に見る

異種のカイメン細胞をまぜ合わせておくと、同種細胞どうしが別々に集合し異種細胞どうしは集合しません。この免疫系には、マクロファージだけでなく既にリンパ球の出現を感じます。動物の進化にともない、「近い非自己」を検知して排除し、その結果として体内に自己だけの存在を許すような役割を専門に分業する細胞、すなわちリンパ球が出現してくる…。

リンパ球といえば、ミミズ(環形動物)とヒトデ(棘皮動物)では、異種あるいは同種他個体から移植された皮膚に対して拒絶反応をおこすので、このあたりから進化してきたのではないかといわれているようですが、このリンパ球ですら、自己と非自己の認識については、マクロファージ的な認識方法をとっているようです。リンパ球の中のT細胞(特にヘルパーT細胞)について。(以下は多田富雄の『免疫の意味論』から抜粋です。少し長くなりますが…)
(結論的には多田富雄も、「自己と非自己」という捉え方はおかしい、「あいまいな自己」とか超システムとしての複雑系をとなえているようです…)

>T細胞は、直接的には「非自己」なる異物を発見し、それと反応することはできない。「非自己」には見向きもしない。「非自己」は「自己」の中に入り込み、「自己」を「非自己」化するらしい。…異物が入る。マクロファージが異物を取り込む。マクロファージの細胞表面にあるHLA抗原の一部(クラスⅡ抗原)は、特殊なやり方で細胞内に入り込み、ふたたび細胞表面に出て行く。マクロファージに取り込まれ部分的に分解された小さな断片がこのHLA抗原に結びつき、HLA抗原が表面に出る際にいっしょになってマクロファージの表面に浮かび上がる。これを「抗原レセプター」という分子で「非自己」として認識する。あるいはクラス1抗原の場合は、細胞内で合成される時に、例えばウイルスタンパクの断片はHLA抗原にくっついて、細胞の表面に出てくる。<

>何も結合していないHLA抗原だったら、「自己」と認めて無関心のT細胞が、異物が結合したHLAを見つけると、直ちに反応を開始する。このHLAに結合した異物の断片を認識するのは、T細胞表面のアンテナ「抗原レセプター(TcR)」という分子である。このレセプターは、異物の断片が取り付いた「自己」のHLA抗原を発見する。すなわち自己のマークであったHLAが、異物によって「非自己」化したのを認識するのである。<

つまり、「非自己」は常に「自己」というコンテキスト(文脈)の上で認識される。免疫は、『非自己』に対する反応系として捉えるよりは、『自己』の全一性を保障するために存在するという考えがでてくる…多田自身はそれだけでは語れないと思っているようですが。恐らく、どんどん(他の生命体。他の情報)取り入れて利用していく中で、生命体自らが秩序崩壊を起こす限界が生じたのだと思います。だから、より厳密に生命体内部の同一性を重んじるようになったのでしょう。しかしだからと言ってT細胞は他者を認識して排除の指令を出しているわけではない。つまり、T細胞の認識は同類が違うものに変わったことを認識して排除の指令をだすわけです。その意味では、同類(仲間)認識が第一であるというのはまさに根源的な認識として免疫系においても塗り重ねられていると思います。

この排除システムとしてはある意味では不完全な免疫であるが、それほど生命体にとって仲間組織(協同組織)が重要であったと言うことではないかと思います。その不完全さゆえにさまざまなウィルスの攻撃にさらされ現在困難な状況を生み出していますが、しかしまた乳酸菌や納豆菌などあるいはほとんどの大腸菌ですら人類は取り入れて利用し協同体をつくってきたという事実も重要ではないかと思います。それほど受け入れ戦略は根源的であるということ、そのための認識が根源にあるということ。

吉国幹雄

2012年11月14日 (水)

「同類」を認識することが生物にとっては根源的

 >特に動物は、外部世界に対する認識機能を発達させていくが、かなり早い段階で同類他者を識別する機能が備わっている。<

 ほぼ同意見なのですが、同種(=仲間)の認識について、そのような機能に特化したとも言える免疫細胞の系譜から考えてみます。

 脊椎動物の免疫系細胞には、たぶんご存知でしょうが、異物を取り込んで消化・分解してしまう大型の食細胞である『マクロファージ』、自分の細胞の異変や発達未熟なものを見つけて破壊する『ナチュラルキラー細胞』、侵入物ごとに多彩な抗体をつくる『リンパ球(T細胞・B細胞)』の三つがあります。この中でマクロファージは、石野さんも例に挙げられているカイメンにも、鞭毛を失った食機能に特化した個虫として存在しています。免疫系細胞の出発点は、このマクロファージと考えるのが有力でしょう。

 マクロファージの起源は、旺盛な食機能を持ったアメーバ(単細胞真核生物)に求めることができるし、さらに遡れば、エネルギー効率を高めた好気性のバクテリア(真正細菌)がその前身と考えられます。

 次にマクロファージの『自他認識機能』ですが、同種か否かを認識するレベルで、「個体特異性」の認識レベルには到達していません。それどころか、同種や近縁種以外の粒子状の物体は、無差別にすべて攻撃します。このことから、マクロファージは、正確には同種だけを識別し、それ以外のものは厳密には識別したとは言い難いような乱暴な方法で攻撃対象と認識していることがわかります。

 したがって、「他者」という概念は、マクロファージ(つまり原始生命)にはふさわしくないように感じます。生命にとっては、もちろんまず自然環境を認識するのが第一ですが、「同類他者」ではなく、「同類」又は「同種」ないしは「仲間」の認識が最も根源的であると表現するのが適切だと思います。

 一方、同じく石野さんが例示されている2種類のカイメンの細胞をバラバラにした実験から、カイメンには「同類他者」を識別する機能も備わっていることがわかります。カイメンにはまだナチュラルキラー細胞もリンパ球も存在しませんから、この「同類他者」の識別は体細胞が主要に担っていることになります。「同類他者」を識別するということは、「個体」を識別したうえで(敢えて言えば「個体」を原点として)、「同類他者」を、そしてそれ以外の「異種」を認識するということだとも解釈できるのですが、生物にとっては「個体」よりも「種」が重要だ(又は先だ)という意見が多いようですし、私もその通りだと思います。

 確かにこの実験は、カイメンのような初期の多細胞生物の段階で、すでに一定の個体間格差が登場していることを示していますが、それは当然で、有性生殖がカイメンの少し前の原生動物あたりから始まっているので、有性生殖による個体特異性の発現を前提にした「同類他者」の識別機能もそれに伴って発達したはずです。やはり、発生論的には「同類他者」の識別は、「同類」の識別ほどは基底的でないということになります。ただ、その後の脊椎動物の進化では、「個体特異性」の認識の重要性が飛躍的に高まっていったということは言えると思います。このことは、逆説的には、性の格差も大きくなる方向で進化は進んだ可能性も示唆しています。

土山惣一郎

2012年11月11日 (日)

専門家集団の自己完結性にひきつけて・・「丸山ワクチン問題」

癌研究の専門家集団の評価ダウンになる(国家から莫大な投資をうけ、医師の中でもエリートと呼ばれる医師たちを出しぬくことになる。)ので、癌専門医達はなんとかそれを否定したかったのでしょう。そして、25年前の医師会は、貧困の時代に築いた権力の残存時期であり、厚生省としても癌研究に膨大な投資をしていることから、表立って否定は出来なくても、医師会の主張が大衆に受け入れられるなら後押ししようと考えていたのではないかと思っています。

ここで丸山ワクチンが、化学物質による殺菌効果のような近代科学で説明可能な作用機序であったなら、もう少しましな展開があっただろうと思っています。そうであれば、癌専門医も事実として認めざるを得なかったでしょう。この事件を複雑にしている原因の一つに、先にあげたホメオパシー医学への批判と同じく、『自然治癒力』を刺激し、それを活性化させ、自力で癌を治すというメカニズムが、生命機構そのものの説明と言うことになり、現在の科学認識では手に終えない状況にある、と言うことがあげられます。

また、近代医学で使用している薬の作用機序が完全に判っているかと言うと、そうではありません。自然治癒力の説明に比べれば、少しばかり詳しくわかっている程度でしょう。例えば、ペニシリンの作用機序などは発見から何十年もたって、やっと(現段階の)説明がついた程度ですが、薬としては長く使われています。そのことは、科学的知識を持ち合わせた殆どの医師はわかっていて当然です。しかし、自己完結的専門家集団の価値軸(集団内の評価軸)に抵触する場合のみ、実証出来ないと科学的判断根拠をたてに否定してしまうのです。そして、科学的と言われると無条件に信じる大衆からは、極少数の反発しか出ませんでした。それゆえ、厚生省もそれ以上介入する必要はなかったのでしょう。

ここで、専門家集団の成立基盤と行動規範について考えると、医師会は健康保険制度をうまく利用して、外部からの干渉を排除できる独立した権力を獲得し、その内部で独自の価値基準で行動するようになり、社会からの期待も捻じ曲げて行動するようなりました。科学者も国家体制に組み込まれるようになってからは、ほぼ同じように権力を手中に収め、独自の行動規範をとるようになり、社会を対象化できなくなっています。

>人を生かすための医学であってほしいし、適応していくための科学であって欲しいです。


という思いは彼らには届かず、「科学的」という言葉をうまく使い分けて、自集団の権益を守るという行動に邁進していっているのではないかと思います。

また、上記の行動規範は普通に考えれば、一般大衆(健康保険加入者、納税者)の期待に反するものですから罪悪感を感じてもいいはずです。なぜ感じないのでしょうか?それをこえた、幻想観念により自己をプラス視する共認が成立しているからだと思います。つまり、自分達は「白衣の聖職者」であり社会に貢献しているのだから、素人が生半可な知識で意見できるものではない、医師(科学者)と言う職業そのものが意味をもつ、という内容の。エイズ問題で、安倍被告から「医師の経験と信念により判断した。」と言うような内容の発言があり、唖然としましたが、TVで氏の表情を見ていると、本人は本気でそう思っているようにも思えました。彼らの行動の正当性の根拠が、聖職者の信念の中にあるということでしょうか。

本田真吾

2012年11月 8日 (木)

高等について

高等についてですか。『生物学辞典』でも、確かに「高等」「高等動物」については定義されていませんね。専門用語として固定されているわけではありません。でも、私達は日常感覚でそのように使われたとしても、あまり違和感を感じない言葉ではありますね。

>「高等」については私も何と書くか少し迷ったところで、前の投稿では「いわゆる高等動物への進化につれ雄雌分化が推進したのは明らか」という形で論旨を表現しました。どうして迷うかというと、この問題は「進化とは何か?」という問題と関わるからです。<

この進化論の会議室で近々扱われるテーマでしょうが、時間軸という「進化過程」(系統樹)において、(正確には、人類の進化系統を辿れば)、雌雄分化は固定化され、雌雄での機能分化は広がる方向で進化してきた、といえると思います。特に爬虫類以降は性の転換は見られない現象です。

>人間が最も環境適応力の高い生物かどうかは分かりませんが(逆にウイルスのような単純な生命ほど「適応」はしているという考え方もある)、しかし私は、少なくともある大きな適応戦略のベクトル(もしかしたら幾つかの道があるのかも知れませんが)というものがあって、人間はそのベクトル上で進化してきた生物種なのだと思います。それを「高等」と表現した訳です(これが適切かどうかは分かりませんが)。<

適応戦略のベクトルを「高等」ですか…。これを持って「高等」とは表現しにくいと私は思います。すべての生物は適応すべく存在しているのであって、その方向性を指す言葉として「高等」とは適切ではないのではないでしょうか。適応の方向性のないものを「下等」とはいえないでしょうから。適応しようとしないものは絶滅種だと思います。

「進化がとまった生きもの」とい類の本や表現をたまに見かけますが、私はこの表現も注意が必要かと考えています。それは一つには、遺伝子還元的に捉えたとしても、たとえばウィルスは絶えず変異を起こしており、変わらないものはないという事実。変わらないということは絶滅するということ。そのことは前提として、絶えず変化している(揺れている)環境の要因があります。

つまり、二番目の問題として生物は生物単独では生存していないのであって、環境は絶えず変わっているということを忘れてはいけないと思います。環境は自然環境・他種との環境・個体相互の環境が考えられます。人類は実現論で触れられているように観念機能を獲得し、第二の進化を遂げているといえるでしょう。しかし、その一つの成果(副産物?)としての化学物質によって、つまり人類との関係においてウィルスはさらに進化していっています。自然環境だけでなく、他種の生物同士の作用もあり、適応戦略のベクトルにのらない生物はない(のらなければ絶滅)というのが私の考えです。

「適応能力が高い」ものを「高等」と呼ぶという点も、「適応能力」の中身によって微妙な表現だと思います。適応能力が高いというのを現在(あるいは人類史のような短い時間で切きってもよいですが)環境に、最も安定的に適応している(繁栄している)というだけでは、高等とはいえないでしょうね。

私は、適応しているということは、生物が「安定(防衛、秩序、固定というイメージでもよいですが)」と「活性(闘争、変動、自由)」という二つの機能(これをまとめて創発的秩序能力と私は考えています)を持ち合わせたべクトル上にあるということだと思います。

安定度が高い、とは変わらないだけではダメで、少しぐらいの環境変動(揺れ情報)があっても、防衛できる機能や形態を生物が持ち合わせているということでしょうか。しかし、可変性が乏しい分、環境の劇的な変化には対応しにくいでしょう。

活性度が高い、とは絶えず外部環境に合わせて、内部の機能や形態を変えていけるということでしょうか。しかし、それでは内部環境の秩序維持が大変です。

適応能力が高いというのをこの二つを兼ね備えているという意味でなら、とても「高等」であると思います…。この観点で高等な生物といわれる人類はどうであるか。おそらく、活性度は共認機能観念機能の獲得によって他の生物よりも、一気にたかまったのでしょう。しかし、これが現在のようにまっとうに働かないとなれば、とても高等な生物とは言えなくなってしまいそうです。

*方向性の話は「よく進化に方向性はあるのか」、議論されるところですが、私は方向性はあるが、それは変異可能性(方向の融通性)を含むものとして理解しています。この点についても、また議論されることでしょう…。(今回は結論だけ)

吉国幹雄

2012年11月 5日 (月)

生きるための医学、適応するための科学

丸山ワクチン、名前は聞いたことがありますが、詳細は知りませんでした。

リンク

によると、

>日本医科大学名誉教授だった故丸山千里博士が開発した注射薬で、ガンの特効薬と言われています。これは結核患者にがん患者が少ないことに着目したもので、ヒト結核菌から抽出した物質が主成分です。体の免疫力を高めてがん細胞全般の増殖を抑制する働きがあるとされます。1976年11月に製造承認を申請しましたが、未だに認可が受けられるず、現在も有償治験薬に指定されるに止まっています。利用患者は約13,000人だそうです(読売新聞3月26日版記事を編集)。<

でも、それだけの利用者がいて、製造承認がとれないのはなんかヘン。・・・・・・
引き続き引用します。

>さて、なぜ政治問題なのかです。丸山ワクチンが開発から25年近く経っても承認が得られないのは、異常です。承認を与えるのは厚生省の中央薬事審議会の仕事ですが、通常は7~8年以内に有効・無効の判断を下しています。丸山ワクチンの場合は臨床データは充分すぎるほど揃っており、問題はその効能の判断です。つまりガンの進行を遅らせることができたかどうかは、個体差が大きくて測れないのです。したがって審議会は有効性を認めないとして1981年に承認を見送った経緯があります。しかし、現実はもう少しドロドロした話があるようです。

 欧米の医薬品会社の意見では、日本で認可された医薬品で有効性の怪しいものは非常に多いそうです。その証拠に欧米でもシェアを延ばしている日本製医薬品はせいぜい30品種程度だそうで、代替性のない医薬品は数品種だと酷評されています。その理由は応用薬にしか目が向かず基本薬に手を出さない日本の製薬会社のお家事情があります。基本薬の開発には莫大な開発費が掛かりますが、実用化の目処ができると競合他社が応用薬、代替薬を大量生産してくるため、開発費の回収ができないのです。その結果、お互いを出し抜きながら応用薬の開発に励むことになります。
 日本の製薬業界が応用薬の開発に励むのは日本の薬価制度にも問題があります。応用薬でも新規に承認を受ければ新薬扱いとなるため、あまり効能が変わらなくても恒に応用薬を作り続ければ高い利益が確保できる仕組みになっています。これは卸会社までニギリ込む製薬業界特有の現象ですが、そんな応用薬を新薬に承認する審議会にも問題があります。既存のものと効能に違いが無いものは新薬として認めないことになれば、基本薬の開発にも身が入るようになるでしょう。製薬会社が臨床データを誤魔化すのは周知のことです。

 話を丸山ワクチンに戻しますが、これは「あまりにも単純な医薬品であるので、応用薬も代替薬も製造することが難しい」のです。しかし一旦審議会の承認が出ればシェアを延ばすことは確実なので、大手製薬にとっては拙いのです。したがって有効性を否定する大論争を起こして闇に葬る戦略に出たと思われます。少なくとも科学的な立証ができなければ、論争は水掛け論になる。臨床データを偶然の結果にしてしまうことも可能です。丸山ワクチンの製造元ゼリア新薬工業は孤軍奮闘を続けていますが、決定的な証拠は引き出せません。審議会としても一度は承認延期とした経緯があって、学会論争に決着が出るまで承認しないようです。
 まさに大手製薬会社のエゴが丸山ワクチンの普及を妨げているのです。少なくとも同ワクチンによる副作用は報告されていません。今でも1万人以上の患者が支持し続けている以上は、医薬品として承認するべきなのです。現在の妥協点は同ワクチンの有償治験薬としての治験期間を無期限とすることでした。治験薬でなくなれば現在の患者に不安が拡がるので、永久治験薬にしたという訳です。

 そこで有償治験薬ですが、患者が自発的に治験者となることを望み費用を患者が全額負担するということです。丸山ワクチンは価格が高く、保険が利かず、近所の薬局では入手できません。関西に住むガン患者の家族が新幹線で東京まで買い付けに来ることもあったそうです。その原因が大手製薬会社のエゴと中央薬事審議会の優柔不断さにあるのは明白であるのにです。現在のところ、丸山ワクチンを十倍に濃縮したアンサー20は、白血球減少抑制剤として承認を受け、現在は子宮頸ガンへの効能指定拡大を目指しています。これは明確な治験データが出ることと、市場規模が小さいことが幸いして妨害されなかったようです。
 ゼリア新薬工業には頑張って欲しいものです。海外で有効性が実証されれば国内でも認証される余地が大きいのですが、資金的に無理なのでしょう。<

気になるのは、

>したがって有効性を否定する大論争を起こして闇に葬る戦略に出たと思われます。少なくとも科学的な立証ができなければ、論争は水掛け論になる。<

というくだりです。
明らかに有効なのに、「科学的な立証」という言葉の前に、効果があるのに手も足もでないなんて、なんかヘン。
その「科学的」は実証主義に基づいた近代科学の科学的なんでしょうね。

それにしても、いくらなんでもその道の専門家である医師が丸山ワクチンを効かないと思っているのはなぜなんだろう?

もうひとつ、丸山ワクチンの参考サイトを紹介します。

リンク

この中の「丸山ワクチンが効かないと言われる訳」から引用すると・・・。
 
>それでも、出てきた結果は、化学療法剤単独よりも、丸山ワクチンを併用したほうが、あきらかに成績が上でした。しかし抗悪性腫瘍剤調査会は、試験方法に疑問があるとして、好成績を示したデータを認めませんでした。
 調査会が認めたデータだけからは、化学療法剤単独の場合の540日後の生存率が0%に対して、丸山ワクチン併用の場合の2年6カ月後の生存率は3%弱となりました。このことが正式に発表される前の1980年12月6日に、一部の大新聞が「丸山ワクチン有効率3%以下」と大々的に報道し、丸山ワクチンがいかに効かないものであるかを強調しました。これは悪意ある情報リークの結果であり、抗がん剤単独の場合0%であったという事実は隠されていました。それどころか、抗がん剤と丸山ワクチンの併用であったにもかかわらず、「(丸山ワクチンの)単独投与のデータ」という大見出し付きだったのです。
 丸山ワクチンを一度も使ったことのない医師が、「丸山ワクチンは効きませんよ」と自信を持って語るのには、こういった背景があるのです。 <

これ読んでて思うのは「専門家にしか分からない」というのは嘘なんじゃないかっていうことです。というか、専門家のタコツボ現象を許す為の言い訳にしか聞こえない。

人を生かすための医学であってほしいし、適応していくための科学であって欲しいです。

長谷川文 

2012年11月 2日 (金)

要素還元的科学信仰からの脱却 「科学と医学」

>医学的あるいは科学的根拠が大事。根拠のないことはすべてえせ、嘘偽り。
「いまのところは根拠はないけれど、患者の治癒例がある」という「グレーゾーン」の事例はたくさんあると思うのですが、医師はそれに「手を貸」してはいけないらしい。

>科学的とは人間に対しての要素主義的な立場から機械論的なアプローチをとること…。体全体を考えるというと、近代医学に対しての漢方医学。これは、有機的な身体全体を総合的に考慮していく、ということですが、

という点についてもう少し深めてみたいと思います。先に投稿したホメオパシー医学は全体性の医学であり、それに対応するのがアロパシー医学(近代科学を母体にした要素還元的な近代医学)と呼ばれています。この二つの医学の対比から全体的認識法と要素還元的認識法の違いと可能性について考察したいと思います。もし、2つの医療についての詳細が知りたければ『人はなぜ治るのか』.アンドルーワイル著.日本教分社.を参照してください。

ホメオパシー医学とアロパシー医学は、治癒率ではかなり好成績を上げている前者を、科学的根拠が不十分であるため正当な医学とは認めないと後者が否定するという構図で対立しています。とはいっても、ヤミ医療とまで烙印を押されている訳ではなく支持者(治癒した患者)はたくさんいます。

ホメオパシー医学の特徴は過去の治癒統計を重視する(事実を重視する)ことにあると思います。具体的方法としては、ある病状にたいして何々病としてカテゴリー分けを行い、その病種に対して共通の薬を処方するという近代医学の方法とは異なり、症状を何時間もかけて徹底的にヒヤリングし(生活パターンや嗜好まで近代医学の感覚では、およそ病状と関係ないようなものまで)、健康な人が服用するとまったく同じ症状が出る薬物(毒物)を過去統計から抽出します。

そしてそれを、極端に希釈して服用させます。近代医学でいう病種が異なっても同じ薬になることがあるわけで病種という概念は重要視していません。その結果、患者は一時的に病状悪化しますが、希釈された薬物に対して刺激された自然治癒力はもとの症状そのものも取り去り、近代医学のように体内に高濃度の薬物を充満させることなく治癒していくのです。

この療法は、生命原理を良く捉えた優れた医療だと思います。しかしながら、どういうメカニズムで治るかということに関しては『自然治癒力』を刺激して、それを活性化させるという手法であるため、その根拠を問うことが生命機構そのものを問うことになり、現在の科学認識では手におえない状況にあります。

本田真吾

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