人間に残された本能
10709>理由は、相手を独占したいという欲望がどうしてもわくからです。 高樋昇 |
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10709>理由は、相手を独占したいという欲望がどうしてもわくからです。 高樋昇 |
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>男性には生まれてくる子どもが自分の子どもであるかどうか、確信は持てません。
>へたすると、他の男性の子どもを知らずに育てることになります。
>男性にとってこれは最も恐れることです。
>自分の遺伝子は残らず、他人の遺伝子を残すことに協力することになりますから。
生物が、自分の遺伝子を残すよう働きかける、ということは私にも理解できます。
じゃあ、嫉妬も、独占欲もない多夫多妻の地域はどうなるのでしょう??
あと、昔の日本の「夜這いの風習」とかも、どうして成立できていたのでしょう??
ますます、わからなくなってしまいました・・
淀川さん、もう少し教えてください!
他の男性のかた、本当にそれって「最も恐れること」なの?
吉岡摩哉 |
母親の体内では、胎児は母親の免疫機能に守られ、無菌状態といわれます。しかし、生まれ落ちたその日から、細菌との共生生活が始まります。大腸菌やビフィズス菌などです。
生態系を考えた場合でも、細菌の種類や数は非常に多く、その果たす役割は重要です。生物から見ての共生と考えた場合にも、循環系の形成と考えた場合にも不可欠な存在です。しかし、殺菌、無菌、抗菌などのブームに代表されるように、人類は菌に対して「ばい菌=きたない=病気」というレッテルを張ってきたように思います。
そして、アレルギーを考えるとき、腸内に定住する細菌が重要であると言われています。腸内に定住している細菌が、外から入ってきた細菌の増殖を阻み、排除する作用があります。体をまもる重要な現象です。食物や飲料水、洗剤や薬品などにより細菌の数が変化してしまいます。これが、アレルゲンの侵入に大きく関わっているようです。
人類が作り出した、化学合成物質は自然環境の中で循環系を形成できずに、数々の環境問題を引き起こしています。そして、体内においては細菌との共生関係を狂わし、免疫機能を阻害しているのではないかと思われます。抗生物質の投与はさらに事態を悪化させている気さえします。
アトピーは、ヒトの免疫機能が発する現代文明に対する警鐘のように聞こえるのですが。
石野潤
皆さんのアレルギーの話から、抗生物質を中心とした対処療法の医学とは何なのかを考えさせられました。
さて、皆さんは風邪をひいたら薬を飲みますか。私はほとんど飲まないので、医者嫌いと周りに言われています。ですから、少し風邪気味になろうものなら「医者へ行け、薬を飲め!」とよく言われます。
でも、風邪は薬では治らないというのは、(医者も良く言いますが、)皆さんもご存知なのではないでしょうか。咳やのどの痛み、鼻づまりは確かに辛い。薬はこの痛みや辛さを和らげてくれます。しかし、咳や痛みには意味があります。免疫機能が必死に病原に挑むから、生じる痛みともいえます。
野口整体の、野口晴哉は「大病する体は風邪をまめにひかない。」とまでいっています。風邪を経過していくことで、少しづつ体が育っていく。そうして体を育てていくことで大病にかかることなく、「自然の健康」を保つことができるとも。
人類は、豊かさの追及のなかで、不快なものを排除することを無条件に良しとしてきたように思います。病気であれば、その痛みを取り除く薬は多々開発されています。しかし、それでは、体の抵抗力が育っていないのかもしれません。
自分の体が、頑張って適応しようとする、その「痛みにつきあう」という心持も必要なように思うのですが、いかがでしょうか。少なくとも何十億年もの試行錯誤と淘汰の上に形成された免疫機能に対して、現代医学はいまだ足元にも及ばないという自覚が、まず必要なのではないでしょうか。
石野潤
近藤文人
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>古細菌は「自己と非自己の認識がうまくできなかった」からミトコンドリアという侵入者を免疫機能を働かせて退治しなかったのではなく、自然免疫で非自己(侵入者)と認識しながらも受け入れたという考え方の方がしっくりくるのではないでしょうか。< 吉国幹雄 |
>遺伝子組み替えの性としての多様性の獲得を実現しながらもオスかメスかの区分はあまり重要な意味を持ち得ていないように思えるからです<
私は、「性」の持つ適応戦略としての意味として、原核生物から真核生物までの共通性として「遺伝子組み替え」に注目し、直接的(直観的には)にはそれは多様性の獲得ということだろうと考えています。もちろんそれだけでは性分化の問題全ては語れないでしょうね。鈴木さんのおっしゃるように、特に爬虫類以降オスとメスとが完全に固定的に分かれていったのはなぜか、それはどのような戦略か、を押さえないといけないでしょうね。
>しかし、ほ乳類以降の系統の動物は様子が異なるように思います。
体内保育というメスの生殖負担の増大に伴い、オスであることメスであることの意味にはっきりとした違いを見てとれるようになります。オスメス分化と言った場合はこの意味合いの違い(種の中での役割の違い)に着目した戦略を指すように捉えています。<
実現論でも触れられているように、ほ乳類においては生殖負担の増大に伴いオスメスの分化が機能分化さらに役割分化というように、単に「多様性」だけでは片付けられない一面がありますね。しかし、逆に「生殖負担の増」という視点だけでは、現在の男女問題を押さえるためにもそれでは、男女の根源的(規定的)条件としては十分ではないのではないでしょうか。進化積層体としてオスメス分化(性分化)を捉えないと、極論ですが、「生殖負担の減」で男女差が小さくなって当然という主張にもなりかねないでしょうから…。その意味では、「遺伝子組み替えによる多様性の獲得」は原核生物から行われている極めて根源的な戦略ですから、まずこの点は十分に押さえておきたいと思っています。
でも、ご指摘の通りまだまだ一面的・蓋然的な捉え方に過ぎないと思います。まずは「有性生殖」という観点で、もう少しこの戦略の持つ意味、あるいはその影響を掘り下げてみたいと思います。
まず、ご存知の通り有性生殖では減数分裂という特殊な分裂を行います。このとき、前回指摘した遺伝子組み替えが起こるわけです。これは、まずDNAに切断が入り、DNAの組換え(交叉)を行った後で、再統合されます。複製や二倍体そして核分裂のところで修復機能についてよく議論されますが、実はここで働く酵素はDNAの修復酵素と共通するものが多いそうです。DNAの組換えの機構は、DNA修復機構から派生してきたものと考えられます。つまり、もともとは減数分裂の機構とは別なものということです。
そして、細菌にもF因子によるオスメス分化は見られるわけですから、オスメスの性分化とも別に減数分裂の機構は独立して獲得されたものといえるでしょう。実際に減数分裂はミジンコのような単為生殖でも見られますから。だから、現在の一般的な有性生殖の機構成立のためには、遺伝子組み替えと減数分裂とそして、「死の機構」が組み合わされて出来上がったと思われます。減数分裂と絡むところでは二倍体の問題が大きいとは思いますが、やはり「性」の「生」戦略を考える時を、「死」の戦略を考えざるを得ないだろうというのが私の考えです。
「死の機構」「死の戦略」については、また改めて述べたいと思います。
吉国幹雄
私は過去、T細胞の認識について以下のように述べました。
>T細胞は、直接的には「非自己」なる異物を発見し、それと反応することはできない。「非自己」には見向きもしない。「非自己」は「自己」の中に入り込み、「自己」を「非自己」化するらしい。<
T細胞の認識は同類(マクロファージ)が違うものに変わったこと(抗原提示)を認識して初めて排除の指令をだすわけですが、>その意味では、同類(仲間)認識が第一であるというのはまさに根源的な認識として免疫系においても塗り重ねられていると思います。<
しかし、考えてみればなんと悠長(冗長)な認識ではないでしょうか。私は再度三つの点を押さえておきたいと思います。
第一に、根源的な認識は、同類(仲間)を受け入れるための認識であるということ。正確には、それは集団(内部環境・場)への受け入れである点。
第二に、免疫の認識系においても塗り重ねられている点。自然免疫から獲得免疫への塗り重ねは、脳における脳幹(延髄・橋・視床下部・視床)から大脳(基低核・辺縁系・新皮質)への塗り重ねや、C系(アドレナリン作動系)・B系(セロトニン作動系)・A系(ノルアドレナリン作動系、ドーパミン作動系)という神経系の塗り重ねにも通じる点であると思います。だから、実現論で言うところの、本能・共認・観念機能における認識機能も塗り重なっていると考えるべきでしょう。さらに、それは免疫系でも神経系でも、アナログ的な認識からデジタル的な認識への移行と見ることもできます。
第三に、例えば各要素(細胞)における大風呂敷的で、まるで冗長的な認識と、上位階層である集団の高度な認識との相違点。要素における認識と集団における認識と置き換えてもよいかと思いますが…。
例えば、異物が集団(内部環境・場)に受け入れられる。直接的にはマクロファージであったり、T細胞であったり…。敵と認識しての攻撃とはほど遠いものです。場合によっては、異物によってその細胞は死を迎える危険性(ひいては集団が死滅する危険性すらある)があるにも関わらずです。そして、要素の小さな動きとしてそれを排除するシグナルを出すと、そのシグナルは加速されて集団全体(集団としての認識)として排除に動きだします。抗体を作り特異的な動きが現れます。私は、これは次のように考えられるのではないかと思います。
なぜ、下部の要素において初めから特異的に排除しないのか。それは、集団(場)の生命体としての適応戦略の一つではないのかと思います。下部の階層において、さまざまなゆれ(ゆらぎ)を受け入れる(許容する)のは、集団が多様な変異可能性(活性)を孕むためではないでしょうか。もちろん、集団が破壊されるような揺れは制限されるでしょう。つまり、上の階層(場)の情報によって、それぞれの要素のゆらぎ(自由度、あるいは不安定性と捉えてもいいですが)は規定される(場の秩序つまり安定。場の絶対性)。しかし、逆にそのゆらぎゆえに上の階層の変わるうる可能性を持つ。つまり各要素に活性(不安定からくる揺動力)を持たせている。何らかの要因でそれが大きくなれば、場は一気に変わりうる可能性を持つ。ある意味ではこれが上の階層の持つゆらぎです。つまり免疫系のゆらぎです。生命体はそのようにして内部環境を絶えず変えていっている(つまり進化している)と思います。
吉国幹雄
先ず、1つ目の受精での精子細胞質の融合の件です。 村田貞雄 |
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