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2013年11月

2013年11月30日 (土)

周りの不全を捨象しない

>彼らに共通するのは、自分がやってしまった事や失敗をなかなか真正面から受け入れられないこと・・・現実直視することが耐えられないので、周りの不全を捨象することで精神の安定を図っているようなふしがある。(106513)

 仕事上で大小さまざまなミスをして、それに関して指摘を受けるとき、いつも「(私が)怒られた」と思ってしまっていました。相手から攻撃されている、自分が傷つけられると考えてしまうのでどうしても頭の中では自分の守りに入ってしまって、自分が悪いんだとわかっていながらなかなか素直に相手の言葉を聞くことができずにいました。

 でも上記投稿を拝見して、自分の行動で周囲の人の役に立ったり、逆に不全を感じさせてしまうことがあるんだと、はっとしました。…私は今まで、自分の不全を捨象したいがためにまず周りの不全を捨象しようとしていたのだ、と。

 よく考えると、自分のミスは対象(お客さんである子供であったり親であったり仲間であったり社会であったり…)に何らかの不全を生じさせるもので、指摘してくれた人や他の仲間が私の起こした不全を解消してくれたり、または未然に防いでくれていたことに気づきました。

 ミスが発生しても現実直視⇒事実の共認⇒ミスの解決。そのためには最初の事実共認は欠かせない。それを妨げてしまうのが、自分の不全だけにとらわれてしまう「自我」。

 ミスをしたときこそ周りを見る。逆にミスをしないためには常に周りを見ること。いつも言われることですが、今後はさらに深くこの言葉を受け止められそうです。

お百姓さん 

2013年11月27日 (水)

中国の学校の序列原理が崩壊している

今回中国に帰って、教員になっている大学の同級生に会った。彼が上海のある高校で教員として仕事をしている。いろいろな今中国の学校の状況を話していた。私も最近日本の学校で起きた事件を話した。
彼の話から分かったことは:今の学生はまずい。
個人主義の浸透、個性大事思想の影響で今の学生は先生より「偉い」ようで、まったく先生を尊重していない。

同級生の例:寄宿制度の学校なので、夜になって就寝する時間帯になると、当番の先生が学生寮にチェックしに行く。ある夜私の同級生が当番の先生だった。一人の男子学生が寮に戻らず、キャンパスでうろうろしているのを見かけた。以下先生と男子学生の会話である。

先生:こんな遅い時間で何で寮に戻らないの?君の名前は?
男子学生:お前の名前は?いつ寝るのが俺の勝てだ。お前に関係ない。
先生:今の態度って何?話し聞かないと警告処理(罰の一つ)になっちゃうよ。
男子学生:お前の給料は俺が払った学費から出てるよ、俺を叱る資格なんかない。

以上のような先生と学生の会話だよ、信じられない。さらに先生の家族全員を殺すと威嚇した学生もいるようです。

そんなこと私が学生の時に考えられないことです。中国の大都会は既に日本と似たような状況がある。学校の中の序列原理が破綻し始まっている。でもこんなに速いと思わなかった。毎回国に帰って、レールに乗った急速な発展をみて嬉しい思いすると同時に、人々の心がますます脱線しているのに対する憂慮が抑えられない。

呉珍之

2013年11月24日 (日)

米軍はイラクで新聞社に金を払って都合のいい記事を掲載させていた

ブッシュ大統領は、2002年9月2日、ペンシルバニア州ピッツパーグで行ったスピーチの中で、“911”についてこんなことを語った。

>子供達は恐らくこう思っているでしょう。「なぜアメリカを憎むの? 私達は誰にも悪いことをしていないじゃない」。いいですか、彼らがアメリカを憎むのは我々が自由を愛しているからなのです。(『ブッシュ妄言録』P.74)

“わけわからんことゆーて子供をだますなよ!”と思う一方、“また『自由を愛する…』かよ”と思ったのを覚えている。

イラク侵略する戦争にまで「イラクの自由作戦」という冗談としか思えないような作戦名を付けるほど“自由を愛してやまない”アメリカの軍隊は、実はこんなことをやっていたということが先日リークされた。

“米軍がイラクで世論工作 新聞社に金渡し、提供記事掲載”
リンク(asahi.comより)

>米ロサンゼルス・タイムズ紙は30日、米軍がイラクの地元紙に金を払うなどして自分たちに都合のいい記事を掲載させている、と報じた。イラクの民主化を進めるための情報活動との名目だが、イラク駐留米軍や国防総省の内部にも「民主主義の原則である報道の自由を脅かしている」として反対する声があるという。(中略)

>ある軍当局者は「新聞社を1社買収し、ラジオ局も掌握して、米国寄りの情報を流している」と話している(中略)

>ラムズフェルド国防長官は29日の会見で、フセイン体制崩壊後の成果として「イラクの自由なメディアの成長がある」と自賛したばかり。長官のスポークスマンは「この記事にあるような活動は、国防総省の原則に合致しているかどうか、疑念を生じさせる」として、調査の意向を示した。

彼らが、『自由』という欺瞞観念を自分たちに都合よく操って洗脳の道具にしているだけだということを如実に示す事件だ(そう言えば、バグダッドが米軍によって陥落した後、掠奪が横行していることについて、ラムズフェルドが「…自由な人間には、犯罪や悪いことをする自由がある」とトンデモなコメントしたのは有名な話だ。参照:53105石橋氏)。

で、この続報…
リンク(同じくasahi.comより)

米国防総省は2日に、米議会に対し、金を払って都合のいい記事を掲載させていた事実を認めるとともに、「新聞広告と同じ」と弁明したというから、その厚かましさにはおそれいってしまう。

一方で、この問題とは別に、米軍が設立した「バグダッド・プレスクラブ」が米側に好意的な記事を書いた記者に対して月に最高200ドル(約2万4000円)を支払っているという事実も、既に米メディアによって暴かれているようだ。

“自由で信頼性がありかつ合法的”“民主主義の確保に尽力する代議政治の実現”を謳ったイラクの選挙(←リンク:在日米国大使館HP)など全て嘘っぱちだったことがこれで証明されたわけだ。でも、既に情報操作と不正だらけの選挙でイラクに親米政権はできあがってしまっている(で、チェイニーのハリバートン社はしっかりと復興事業を受注してホクホクしているってわけ102362)。

『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム著リンク、にこう書かれている。

>CIAは、国会選挙で自民党を「一議席一議席」支援するために、何百万ドルもの予算を費やし、日本社会党を弱体化させるために策動した。その結果、自民党は38年にわたり権力の座を維持した。これはやはりCIAがスポンサーとなったイタリアのキリスト教民主党政権に比するものである。こうした策略により、日本とイタリアでは強固な複数政党制が発達しなかった。

上に書いた今回のイラクでの「世論工作」のようなことは、既に日本でも戦後ずっとやられてきたことなのではないのか? 98533(吉国氏)の投稿や、リンク(森田実氏HP)などを見ると、そう考えざるを得ないのではないか…という気がしてくる。ますます、普通の人たちの手でマスコミに代わるメディアを創る重要性が増してきたと感じる。

tanvool 

2013年11月21日 (木)

何も変わらないことを、声高に主張するオジサン世代

個人主義がそもそも矛盾を孕んでいて、環境破壊・精神破壊・肉体破壊
を生んでいるというのは、普通の人なら少し説明すればわかる。

同様に、全体主義と呼ばれるものにも一色共認の破滅性が潜んでおり、それに生存圧力=私益追求が絡む限り、巧く立ち行かない事は歴史が証明している。

新しい観念が必要なのは自明だろう。

しかし、それがわかっているにも関わらず、多くの人は現行の個人主義という大枠から飛び出す事を恐れている。
そして、露店などでよく会うのが、そんな自分を正当化して誤魔化すかのごとく、「どうせ社会は変わらない」と、自分の身の回りの現実の旧い圧力を例に出して主張する人達だ。(オジサン世代におおい)
「何も変わらない」ことを強く主張するのである。

人類が危機的状況に陥っていることを強く認識できている人ならば、何も変わらないじゃ済まないことは勿論わかっているから、こんなことは口が割けてもいえる筈が無い。ということはつまり、状況認識が甘い=外圧把握能力が低い人は、旧観念によって縛られているからそうなってしまっているのだといえそうだ。
逆に言えば、旧観念に絡め取られた人間は、外圧把握能力が低いともいえる。外圧把握能力の低い人間は、適応性が乏しいため本来的には淘汰されていく運命にある。

そんな人達の延命をさせるような制度を作ることでさらにガタガタな社会を築いて行くことに、一体何の意味があるのか疑問だ。

北村太郎

2013年11月18日 (月)

もはや「個人」という観念は見捨てられた。

僕らの世代(20代)の間で、
去年まで辛うじて使われていた言葉「自分探し」が、
ついに今年に入ってまったく使われなくなってしまった。

選挙を通して社会に対する興味・危機感は高まり、
「自分」なんて探している場合ではもはやなくなった。

結局のところ、
資格や学歴は企業という集団があってはじめて成り立つ物に過ぎないし
(要は倒産したら無効)、
あるいは年金など社会保障も、国家が破綻したらすべて無効である。

これまで「個人の権利」として要求されつづけてきた
それらの肩書き・権利は、結局のところ個人を超えたものに依拠していた。

その事実を突きつけられた僕らの世代は、
個人という収束先を捨て、社会(or集団?)に収束し始めた。
それはすなわち、急速に共認(or共認闘争)に
収束していくということではないだろうか。

となれば最先端の潮流は、
「自分の悩み」から「社会問題」へと移行していくはずだ。

いよいよ、政治の季節に入った!

Lucky 

2013年11月15日 (金)

お母さんの理想がもたらしたもの

>音楽・芸術にしろ、語学にしろ、“お受験”にしろ、頭のやわらかいうちに吸収すれば才能を伸ばすことができる、ということが一般に信じられており、それが「英才教育」の根拠になっています。しかし、確かに音感など音楽の才能がもともとある子供にとっては有効な場合もあるらしいのですが、偏った幼児教育は、大抵の場合、それほど有効に機能しないばかりか、子供の正常な精神発達を阻害することが分かっています。
というのも、その時期の幼児の脳は、人間として仲間・社会の中で生きていくためのトータルの能力を習得することを必要としてそれに対応して急激に変化しつづけています。相手の表情から相手の気持ちを読み取る力や、周囲に同化することで自分の気持ちや意思を伝えるすべを体感の中から学んでいくその重要な時期に、極めて限定的な、しかも偏った(現実の社会に適応する上で最大の外圧=同類圧力を無視した)能力を身につけることを強制されるわけです。

先日、知人から自閉症の甥っ子さんの話を聞きました。
もう立派な青年に達する年齢なのですが、彼の口から言葉は出ず自ら進んで何かをするという行動もとれない。
知人が彼の顔をしっかり見て「○○ちゃん、こんにちは!」と話し掛けてはじめて「こんにちは。」と言葉が返ってくるがその後の言葉は続かない。食事の時もじっと待っているだけで「さあ、みんなで食べような。好きなものから食べていいんやで。」と知人が促すけれども知人が口にした物と同じ物をやっと口にし、その後もずっと知人が口にしたものをじっと見ていて食べるの繰り返し。

何故、彼はこんなに?
母親が理想主義、潔癖症+完璧主義?と知人は言うのですが、それだけではなさそうです。
・胎教にいいからとクラッシックを聞き、生まれてからも常にクラッシックを流す。
・生まれたばかりの孫を見たさに祖父母が病院に訪れても「生まれたばかりで新生児室にいる間は遠慮してください。」とそのまま祖父母を帰す。
・泣いても「今、ミルクも飲ませたしオムツも替えたから。」と様子を見るでもなくそのまま。
・離乳期を過ぎ何でも食べれるような頃になると、「さあ、ご飯にしましょうね。」とテーブルにあるその日の幾つかの献立を順番に・・・ご飯・おかずA・おかずB・お茶といった具合に彼の口に運ぶ。
知人の子供達がテーブルにあるおかずを取ろうとしようものなら(普通この年齢の子供は何でも興味の対象になりますからテーブルをよじ登ってでも取ろうとします。)「○○ちゃん、躾出来ていないわね。」と目くじらを立てて知人を叱る。
印象に残った点だけでもこの通りで、驚いてしまいましたが、彼は3歳頃から、何も話さず何もしない子になっていたということです。
母親の歪んだ価値観で育てられた結果です。
「我が子のために」と期待をかけて「育児」や「教育」を独自で学び他人の介入を一切許さなかったそのこと自体に問題性が有ることは言うまでもありません。
それ以前に母親の歪んだ価値観を生んでしまった生い立ちや家族の関係性も気にかかるところです。
このお母さんの「理想」とは存在不安の解消・自我充足のための代償物に過ぎなかったとしか思えてなりません。

後藤美奈子

2013年11月12日 (火)

「自分の成果」に拘ることの危険性

最近、知人が有名大手IT企業で働き始め、いろいろとその会社の様子を聞くのだが、その企業の話を聞けば聞くほど、「一体成果って何だろう?」と思い始めた。
その会社は、IT企業の多くがそうであるように、一つのプロジェクトに対して、腕の立つSEやプログラマーが集められ、契約制で企業と契約を結び(例えば、私にはこれだけの能力と実績があるから、1月いくらで雇って欲しいと言うように契約を結ぶらしい)、プロジェクトチームが作られる。そこでは、契約制であることから完全な成果主義方針(成果に繋がらなければ契約を切られる=リリースと言うらしい)がとられている。
自分の腕に自身のある人間が集まってくるので、成果は一定上がるらしい。これだけ聞くと問題なさそうだが、問題は集団としての統合にある。

聞いた話の範囲だが、彼らは極めて時間にルーズらしい。
出社時刻が決められているが、殆ど意味をなしていない状況のようだ。
知人は、SEやプログラマーではなく、営業秘書業務の為、遅刻する人間のチェックをし、理由を聞き出すが、(当たり前だが)殆ど言い訳のようなものしかでて来ない。当然遅刻が常態化すれば、重要なミーティングが時間通り行えなくなったり、様々なチーム運営上の問題が噴出する。
また、もう一つの典型的問題として、自分に与えられたプロジェクト内の役割にしか向かわず、周りを見ない点があるようだ。チームとしての成果=みんなの成果と自分の成果が完全に切り離されているのだ。

話を聞いていると、どうも、彼らの意識には、「自分は成果を上げているから問題ない」と言う自己正当化観念が見え隠れする。
 自分は成果を上げている=一生懸命働いているから、遅刻するのも仕方ない。
 周りが成果を上げていなくても、自分は成果を上げているから問題ない。
チームのあらゆる問題は、「自分は成果を上げている」と言う自己正当化観念(自己成果主義)によって生み出されているように思う。

こんな状態では、集団としての統合なんてあったものじゃないし、それぞれの個人レベルでの成果は上がっても、結局全体としての成果に繋がらない。実際、全体としての成果が今一上がらず、集団全体が壁に当たっているようだ。

このような話は、何も知人の企業に限っただけではないと思う。
実際、僕の周りでも似たような話がこの間あった。僕の働いている事務所では、若手が事務所掃除を行うのだが、今年は掃除を行わない若手が数名いた。何度総括しても改善されないので、ついに先日、精神構造を探る徹底的な総括を行ったのだが、やはり彼らの思考の裏には「自分は一生懸命働いている、成果を出している(だから掃除これないのは仕方ない)」と言う正当化観念があった。これは、彼ら掃除をしない若手に限った話ではなく、遅刻が多い人や周りが見えていない、個人プレーの多い人などに同じような傾向があると思う。

これらの事例から考えるに、自分で、「自分の成果」に拘っている状態は、非常に危険だと考えた方が良い。そういう「成果主義」的な思考は、ほぼ間違いなく自己正当化の為に使われている。

成果とは「個人」レベルに切って考えられるものではないのだと思う。
企業の、チームの、集団としてのみんなの「成果」。そこに向かって始めて成果は成果となる。
集団としての期待、みんなの期待がどこにあるか。
それを捉えた上で、その期待に応えようと仕事する、行動する。
そのみんなの期待の先にこそ「成果」があるのであって、個人レベルでの成果=「自分の成果への拘り」のは、全体課題をズリ落ちさせるだけだと思う。

「成果」とは、決して自分で判断するものではない。徹底的に周りに委ねるものなのだ。

西谷文宏

2013年11月 9日 (土)

存在基盤を失った個人主義

科学技術(事実認識)の進歩に伴い、私権獲得の可能性が広く開かれた近代黎明期、人々の私権に対する収束力が一気に増していったであろう事は容易に想像できる。それまでの、あらゆる規範は、私権獲得の手枷・足枷になるものだから、とことん規範は蹂躙され解体された。人々が強く収束したのは、まさに市場拡大の可能性(私権獲得可能性)に対してである。細部の問題や追求課題は「合理」という正当化観念によって、ことごとく捨象(切り捨て)されその後それらが様々な問題を引き起こす事になる。

自由競争⇒市場拡大に「個人主義」が果たした役割は大きい。
「自分以外は全て敵」といった、人類の持つ本源性に蓋をし、ひたすら己の欲求(私権欠乏)を肥大化させ正当化するためには、強烈な反規範・反体制のエネルギーをもった思想が必要であったのかもしれない。その大元が「個人主義」であったのではなかろうか。確かに、自由競争を正当化するのに、これほどしっくりくる思想は他に無い。

しかし、歴史を大きく振り返るのであれば、いったい「個人主義」は何を実現したのか?「市場拡大」は何を実現したのか?

歴史上一貫して人類に加わりつづけてきた「生存圧力(貧困の圧力)」を克服した功績は大きい。しかしながら、細部の追求をことごとく捨象してしまったがゆえに生じた、現在顕在化している負の功績も見逃してはならない。財政破綻・環境破壊・精神破壊etc…個人主義に基づく市場拡大がもたらした現在の閉塞状況を、個人主義者たちはどうとらえるのであろう?また、生存圧力をほぼ克服した現在、市場拡大の可能性が殆ど残されていない現在(私権の衰弱の甚だしい現在)、「個人主義」の存在理由はどこにあるのか?また、よくよく考えてみれば、市場の拡大を実現し、貧困を克服したのも、結局は「個人」ではなく「集団」の共認によって実現されてきたのではないか。

現在の日本でどれだけの人が市場拡大の可能性を信じているのであろうか。「年収300万円でも楽しく暮らす!」なんて書籍が売れている事自体「市場の拡大停止」を直観しているのではないか。「個人主義」が拠って立つ「市場拡大可能性」という基盤が崩れつつある現在、「個人主義」の存在理由はもはやなくなったと考えても良いのではないだろうか。

ゲン

2013年11月 3日 (日)

“うち(家)の叱り方”は親の“エゴ”

>幼稚園の子供を持つ友達に聞いた話。「同じことをしたとしても、それぞれの家庭で叱り方(価値観)が違う。だからよその子を叱るなんてできないし、そんなことしたら母親間の関係がぎくしゃくする。」

最近の若いお母さんは、よそ様に気兼ねするあまり“子供を叱るのも人(家)それぞれ”という意識がけっこう濃厚になってきているようです。

たとえば、我が子がよそ様のおもちゃを壊した場合は「ダメ!」と叱ります。でもよその子におもちゃを壊されたときは「我慢しなさい」でおしまいです。一対家庭によって共同体が駆逐され、それまで共有してきた規範を喪失してしまった今となっては、人それぞれの規範(?)というのもやむなし・・・かもしれませんが、視点を子供にうつして考えてみたらこれほど不条理なことはありません。

同じ悪さをしても叱られるのはいつも自分だけです。おもちゃを壊されて悔しい思いをしてもそれは我慢しなければなりません。同じ悪いことなのに自分ばかりが責められる(我慢しなければならない)のな何で?ちいさな子供は言葉で問いかけることはしないでしょう。でもその代わり子供なりの答を出します。“仲間と関わらなければ(おもちゃの貸し借りなどしなければ)いいんだ”と。

また母親の言う“うちの叱り方”とはその人固有の価値意識です。共通の規範に則していない、ということは当人の気分(好き嫌い)次第でどうにでも変わるということです。母親の機嫌がいいときは軽くたしなめられ、機嫌が悪いときはとことん絞られる。常に母親の顔色をうかがいながら行動するようになるのは時間の問題です。

もしこれが一般家庭で行われている“躾”であれば、のちのち現実の仲間関係や社会の人間関係に対応(適応)してゆくことが困難になることもは容易に想像できます。一対家庭の中で孤立し、自らの価値意識(規範なき自我)によってしか躾ができない状況にある母親。そうして育てられ、現実や社会に適応してゆけなくなる子供達。子育てをめぐる母子の問題は、一対家庭のあり方を根本的に見直し、共同保育(そこには子育て規範の再生・共有も含まれます)の可能性を探ってゆく中でしか解決できないのだと思います。

阿部和雄

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